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 「貝塚」といえば、縄文時代の貝塚跡と思いがちだが、大阪府貝塚市の「貝塚」は縄文貝塚のことではなく「貝塚寺内(かいづかじない)」に由来します。
 貝塚寺内は「海塚(かいづか)」に由来し、もともとは海塚と書いて「かいづか」と読んでいたようです。 ちなみに今でも「海塚」という大字名は残っています。 でも「うみづか」と読みます。

 貝塚寺内町は、貝塚御坊・願泉寺を中心に中世末頃に形成された自治集落。 願泉寺は16世紀後半に浄土真宗の本山・本願寺が置かれたこともあり、古い由緒を持つ寺院である。
 天文14年(1545)、無住であった草庵に紀州根来寺から卜半斎了珍を迎え、一向宗の町づくりが始められた。 石山本願寺から寺内町にとり立てられた後、天正5年(1577)には、その支城として織田信長と戦い、町は焦土と化した。 その後、寺も町も再興され、天正11年(1583)7月から同13年8月に大坂天満に移るまでの2年間、紀州鷺ノ森より「顕如上人」を迎えて本願寺御堂となった。 江戸時代には、町は寺領とされ、住職の卜半家の支配の下に置かれた。

 貝塚寺内町めぐりみちを歩くと、当時を偲ばせる土蔵や格子戸などが小路のところどころにあり、かつての街の繁栄ぶりを物語る姿も数多く残っており、貝塚の歴史を物語る。
 南海本線貝塚駅前から西に広がる旧市街地一帯が、一向、宗徒達によって始められた貝塚寺内町で、大きな屋根を持つ願泉寺を中心に環濠城塞都市が築かれていた。 現在環濠は残っていないが、歴史的景観を残そうと石畳の道が整備され「貝塚寺内町めぐりみち」と名づけられている。 その道に沿って利斎家や山田家・並河家といった立派な民家が旧姿を留めていて、当時の施政と町の豊かさを今に伝えている。
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