日本の三大山城の一つ、備中松山城のある高梁は、明治になるまで「松山」と呼ばれていた。 町は高梁川に沿って南北に長く、川霧の立ち込める山峡の麗しい小京都である。

 小さなせせらぎ紺屋川沿いは、桜と柳の並木も美しい美観地区。 商売繁盛の神さんとして祀られている小社・恵比寿宮、格子や白壁の風情のある建物、昔風の商店。 懐かしい時間がゆったりと流れている。

 高梁基督教会堂は、岡山県最古の教会で明治22年に建てられ、また高梁市郷土資料館は、旧高梁尋常高等小学校の本館で、明治37年に建てられたもので、西洋文化と自由民権運動など、高梁の近代化を目指すものであった。




 石火矢町は通りの両側に土塀が続き、明治維新以後130年以上になる今も、格式のある門構えの家並みが見られる武家屋敷町です。 現在、武家屋敷館として公開されている漆喰壁(しっくいかべ)の美しい建物は、今から170年前の天保(てんぽう)年間に建てられたもので、160石馬回(うままわ)り役を勤めた武士が住んでいたものです。 母屋(おもや)は格式のある書院造り、また中庭の池や庭石、踏み石などは、ほぼ昔のままで、その庭に面して資料館があります。
 石火矢とは昔の大砲を意味し、鉄砲や大砲を持って出陣する武士達が、この界隈に集まって暮らしていたことに由来しているらしい。 



 古い商家の並ぶ本町通りにあって、ひときわ目を引くのが池上邸です。享保(きょうほう)年間にこの地で代々小物屋や両替商などを行っていましたが、明治28年、8代目の当主の時、醤油の製造を始め、昭和37年まで続けられました。
 本町通りから新町通りにわたる広大な屋敷を、旧商家棟、管理棟、商家資料館、醤油の製造工程を復元した醤油製造場からなる資料館として整備し、平成3年4月より一般公開されています。