富田林寺内町の古い町家は整型四間取りの平面構成をとり、煙返しの梁など農家の建築技法を用いています。旧杉山家住宅はこれら町家の中で最も古い遺構であり、規模も大きく質のよい商家の住宅として、昭和58年12月26日重要文化財に指定されました。
 杉山家は寺内町創立以来の旧家で、代々「杉山長左衛門」を名乗り、江戸時代を通じ富田林八人衆の一人として町の経営に携わってきました。
 旧来の家業は明らかではありませんが、貞享2(1685)年に酒造株を取得した後は、造り酒屋として成功し、当初30石であった酒造石高は、元禄10(1697)年に104石、天明5(1785)年に1103石と著しい発展を遂げています。江戸時代の屋敷図によると、杉山家の屋敷地は町割の一画を占める広大なもので、その中に主屋を始め酒蔵、釜屋、土蔵など十数棟が軒を接して建てられており、その繁栄をうかがうことができます。  
主屋の建築年代は、土間部分が17世紀中期で最も古く、その後に座敷や二階部分を増築し、延享4(1747)年ごろほぼ現状の形に整ったものと考えられています。  

 当家は屋号を「佐渡屋」といい、酒造業を営んでいました。代々徳兵衛を名乗り、寺内町八人衆をつとめたと伝えられています。
 正徳5(1715)年に酒造株を取得してからは、造り酒屋として著しい発展を遂げ、天明5(1785)年の酒造米高は、河内国で最高の2135石に達しました。寛政4(1792)年には江戸市場を対象とした酒造業の理事長にあたる「河内一国江戸積大行司」をつとめました。
 主屋の建築年代は普請入用帳から天明2〜3(1782〜3)年であることがわかっており、主屋西側の店部分、南に続く3室の別座敷も同時期のものです。
 この座敷には文人墨客が数多く訪れ、長州藩士吉田松陰もその内のひとりといわれてます

 この町の道路は、ほとんどが直交せず「あてまげ」と呼ばれるように少しづつずらして通りを見通せないようにしています。

 この町は、一向宗の寺院を中心に宗教自治都市として形成され、町の衆はこの寺院を「御坊さん」と呼び親しまれました。