長さが百五十メートルちかくもある前方後円の蛭子山古墳は、網野町の銚子山古墳、丹後町の神明山古墳と共に、山陰道の三大古墳とよばれています。 残念ながら、だれのお墓かわっていませんが、おそらく大和朝廷から丹後へ遣わせれたえらい人のお墓だろうといわれ、地元では、聖徳太子のお墓という説もあるそうです。
 すぐ隣には、大きな作り山古墳があり、この二つの古墳が発掘された時は、大へんなさわぎで、大ぜいの人々が地元ばかりでなく、遠くから見物におしよせたそうである。
 作り山古墳からは、首のまわりを玉で飾った女の人の骨が出てきました。棺のふたを開けた時、どうしたことか、たくさんあった髪の毛がみるみるうちに消えてなくなったといいます。
 加悦町古墳公園は、蛭子山古墳とその隣の作山古墳を古墳時代前期後半、1600年前の状態に復元整備した公園で、墳形が円墳・方墳・前方後円墳と古墳の代表的な形が揃っています。
 また、公園内には、町内から出土した縄文時代の住居も復元され、古代住居を復元したテーマパークといった感じでもあります。

 
 加悦鉄道は、大正14年、加悦地区8ヶ村の丹後ちりめん産業を通じた京阪地区との交流、及び村の子供たちの通学の便を図るため、村民823名の出資により設立されました。翌大正15年、国鉄連絡駅である丹後山田駅〜加悦駅間5.7キロが開業。この時使用されたのが2号機関車でした。以後、ちりめん産業の隆盛に加え、昭和14年には大江山にニッケル鉱山が発見され、鉱土輸送のため加悦駅から鉱山駅まで2.6キロ延長し、丹後の小さな鉄道は活況を呈しました。
 昭和20年の終戦とともに大江山よりのニッケル鉱土輸送は停止され、戦後は次第に蒸気機関車からガソリン車、ディーゼル機関車に主役が代わり、昭和31年頃には5輌ほど走っていたSLも廃車となりました。
 さらにモータリゼーションの波におされ、貨物及び旅客の鉄道利用が日に日に減少し、ついに昭和60年4月30日のさよなら列車運転を最後に鉄道事業を廃止、地場産業であるちりめんの輸送、国内重工業の礎となる鉱土の輸送、地域の人々の通勤・通勤通学等々その時代時代の役割を担ってきた加悦鉄道は、昭和の60年間を走り抜いた歴史の幕を降ろしました。
 昭和45年より、旧加悦駅構内の一部において「加悦SL広場」を営業しておりましたが、これを旧鉱山駅跡地に移転、施設も新たに建設。内容も大幅な充実を図って、新しい「加悦SL広場」としてオープンしました。平成11年には産業考古学会より保存功労賞を、平成12年には推薦産業遺産に認定、また鉄道友の会よりグローリア賞を授賞しております。